普段の食事とお祝いの日の食事

私が昔よく叱られる時に言われたセリフは、
「ここは年に一回、一生に一回の喜びを演出する料理を作っているんだよ」
(以下どこが駄目かを先輩が罵詈雑言の嵐と共に説明)
「何十年後に思い出して、「あそこは美味しかったよね」って言われなきゃ駄目なんだよ」
(以下どこが糞か先輩が足蹴りの渦と共に説明)


一食二万円近くするお店でした。


一日二十時間働こうが、
給料激安だろうが、
休みが二ヶ月に一度であろうが、


*1技術・知識・時間・精神のひとつひとつが面白かったです。


憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記さんより
心にも栄養を (2006-09-29)


わが家にやってきた甥っ子は、お祝いの料理を前にして怪訝な顔をしています。

それもそのはず。食卓に並んでいたのは、
色の悪い手作りのベーコン、竹の子や野菜の煮物、
かしわご飯、芋の煮っころがし、煮豆といったものだったからです。

中略)

「見た目だけ派手で美しい料理」を出そうと思えば簡単です。(中略)
でも、華やかな色とりどりの加工食品を並べた食卓と、
家族でつくった地味な田舎料理を並べた食卓と、
どっちが豊かか。どちらが心がこもっているか
――比べるまでもないのではないでしょうか。

(安部司『食品の裏側』p.215-7)

この話とほぼ同パターンでキチガイになってしまった人を知っています。
自宅で加工食品を食べると怒られるので、良く我が家に来てクリームパンを買ってきて食べていました。


豊かでも、心をこめようが、子供の心に残るのはお祝いの日の虚しさだけです。
必要なのは楽しさです。楽しさです。楽しさです。
楽しくない食事なんて幾ら美味しくても食べるに値しません。


ただ、この話のおかしい所は、
別に地味な料理で無く、お祝い料理を作れば良いって所。
地味な田舎料理でないと駄目な理由が存在しないのになぜそこに拘るのか?


例えば、フォン・ド・ヴォー。ご馳走料理のビーフシチューやハンバーグのソースなどになります。
でも、材料は野菜と子牛の骨です。
子牛の骨は食べられない廃棄物として扱われていた部分です。(成牛なら肉コップンの材料)
野菜は見た目の悪い安い野菜を使います。野菜の皮や剥き屑もつかいます。
それを鍋に入れてグツグツ丁寧に煮るだけ。手間さえかければ自宅でもできます。
使う材料は素朴ながら、非常に強い旨さをもったダシです。*2


この人は素朴な田舎料理ではないと心がこもらないと思っているのかな?
ご馳走を作るには技術・知識・時間・精神が非常に重要です。
この人はその手間を省いて、楽な方へ逃げているだけじゃないのかな?


機会があったら読んでみたいけど、
この手の本に金を出すのは自分を伸ばす為の役に立たないばかりか、
金と時間と脳味噌の無駄な気がする。
(どうせ買うなら調理本のみならず、食品関係の学会雑誌買って読んだ方が楽しいです)

*1:トップクラスの店は皆こんな感じです。

*2:ソース自体のインパクトが強すぎて、最近では使われない傾向にありますが